2009年05月31日
「物厚ければ、情薄し」?
「物厚ければ、情薄し」?
昔からこんな事を聞かされました。
持たざる者の僻みの様の聞こえますし、真実のような気もします。
所謂、下心の表現方法として考えれば確かにその下心が大きいほど、物は大きいもの、より高価もの、よりインパクトの強いものへとなってしまいます。
でも、下心でなくても思いが強いか重ければ差し上げるものはより大きいもの、より高価なもの、より心の表現が相応しいものへとなってしまいます。
お金持ちで気持ちが伴えば、もっと大きいもの、目の飛び出るほど高価なもの、想像もつかない程の印象深いものになるのかもしれません。
日本の極めて著名な歌手の方が、病院へ入院されました。
担当の医師の方が頂いたものは高級時計、どうも?百万するのではないかと。
バブル全盛の頃、中洲に通うお客さんが行きつけのお店のホステスさんに何の見返りも求めずに立派なお店をプレゼントしたとか。
見返りの程は定かではありませんが。
結婚で言えば、結納金の大きさや持参金の多さ。
極めて象徴的なことかもしれません。
結納金や持参金が多いから幸せの度合いも大きいかといえば全くそんなことはありませんよね。
人はまた、貰うものによってその人の評価をしたり、思いの深さと勘違いもするものです。
ある病院では、全ての謝礼は絶対禁止と聞きます。
あったら、即刻首とのこと。
命の重さはお金でも物でも量れないという崇高な精神の表れです。
患者にとってはありがたいことですが、とわ言え、何かお礼、お返しをしたいという思いは日本人の基本的な精神の中の染まっているようにも思えます。
亡くなったときの戒名も金額によって、字画や文字数が違うとか。
墓地に行くとつい墓石に刻まれた戒名の長さでついその人の裕福さや地位を推し量ろうとする浅はかさが滲み出てしまいます。
世間的には物の行き交いは余り望ましい風習ではないという意見が多いようにも思いますが、私自身は素晴らしい風習だと思うのです。
差し上げるほうは、そんなに金額や大きさに拘らずに心を込めて差し上げれるようになるといいですね。
貰うほうは、惑わされないで、しかもあげる人の魂胆を詮索したり、思惑に差別することの無いようにあって欲しいものです。
昔、江戸時代かもしれませんが、こんなときには此れ位とか、暗黙の了解が存在したとも聞きます。
お金や物に左右されないで、純粋に人としての付き合いが出来ると嬉しいですね。
日本人は感謝の気持ちを物に託す文化がありますから、それはそれで素晴らしい風習だと思います。
運用するわれわれの気持ちに邪まなものが存在しているから良くないんですよね。
昔からこんな事を聞かされました。
持たざる者の僻みの様の聞こえますし、真実のような気もします。
所謂、下心の表現方法として考えれば確かにその下心が大きいほど、物は大きいもの、より高価もの、よりインパクトの強いものへとなってしまいます。
でも、下心でなくても思いが強いか重ければ差し上げるものはより大きいもの、より高価なもの、より心の表現が相応しいものへとなってしまいます。
お金持ちで気持ちが伴えば、もっと大きいもの、目の飛び出るほど高価なもの、想像もつかない程の印象深いものになるのかもしれません。
日本の極めて著名な歌手の方が、病院へ入院されました。
担当の医師の方が頂いたものは高級時計、どうも?百万するのではないかと。
バブル全盛の頃、中洲に通うお客さんが行きつけのお店のホステスさんに何の見返りも求めずに立派なお店をプレゼントしたとか。
見返りの程は定かではありませんが。
結婚で言えば、結納金の大きさや持参金の多さ。
極めて象徴的なことかもしれません。
結納金や持参金が多いから幸せの度合いも大きいかといえば全くそんなことはありませんよね。
人はまた、貰うものによってその人の評価をしたり、思いの深さと勘違いもするものです。
ある病院では、全ての謝礼は絶対禁止と聞きます。
あったら、即刻首とのこと。
命の重さはお金でも物でも量れないという崇高な精神の表れです。
患者にとってはありがたいことですが、とわ言え、何かお礼、お返しをしたいという思いは日本人の基本的な精神の中の染まっているようにも思えます。
亡くなったときの戒名も金額によって、字画や文字数が違うとか。
墓地に行くとつい墓石に刻まれた戒名の長さでついその人の裕福さや地位を推し量ろうとする浅はかさが滲み出てしまいます。
世間的には物の行き交いは余り望ましい風習ではないという意見が多いようにも思いますが、私自身は素晴らしい風習だと思うのです。
差し上げるほうは、そんなに金額や大きさに拘らずに心を込めて差し上げれるようになるといいですね。
貰うほうは、惑わされないで、しかもあげる人の魂胆を詮索したり、思惑に差別することの無いようにあって欲しいものです。
昔、江戸時代かもしれませんが、こんなときには此れ位とか、暗黙の了解が存在したとも聞きます。
お金や物に左右されないで、純粋に人としての付き合いが出来ると嬉しいですね。
日本人は感謝の気持ちを物に託す文化がありますから、それはそれで素晴らしい風習だと思います。
運用するわれわれの気持ちに邪まなものが存在しているから良くないんですよね。
Posted by mister_kei0918 at
16:15
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2009年05月30日
今、思いついた言葉を書いてください・・・「輝」
今、思いついた言葉を書いてください・・・「輝」
先日、あるセミナーを受けてました。
中小企業におけるブランディングの話。
講師の方は全国的にも著名な方で、極めて分かりやすい、しかも馴染みやすい口調で素晴らしいものでした。
いつも話し慣れておられるので、滑るような、しかも聞き手をひきつける表現や身振り手振りには学ぶところが多く感じられました。
始まるとその方から、近くの方と名刺交換でもしながら、それぞれの好きな言葉について話してみてくださいとの指示です。
私は、孔子の
「心の欲する処に従えども矩を越えず」。
3人のグループでしたが、それぞれの方がご自分の言葉を説明をするようになっていましたが、私の番になったときには時間切れで説明せずになってしまいました。
お二人は若い男女。
そして最後の頃になって、その先生から今ご自分が思いついた言葉を一文字であらわしてくださいとの要求です。
私は「輝」にしました。
咄嗟の事で理由など考えている暇はありませんでしたが、結果については良い言葉を思いついたものだと我ながら感心をした次第です。
ですから理由は後から取ってつけることになってしまいました。
その取ってつけた様な理由。
もうそろそろ輝きを失う世代だから、今一度輝きを、
再び輝きを取り戻すことで、影の部分を際立たせる
、
影の部分、負の部分を今一度再確認を、
これからも自分磨きの工夫や努力を。
目立たなくても、常に自分の心に光を、
・・・・・
『太陽が照れば塵も輝く。ゲーテ』
『光のすばらしい輝きはその影がなければ存在しえない。
人生は一つの全体であって、
善も悪もともに受け入れられねばならないのである。
チャーチル』
先日、あるセミナーを受けてました。
中小企業におけるブランディングの話。
講師の方は全国的にも著名な方で、極めて分かりやすい、しかも馴染みやすい口調で素晴らしいものでした。
いつも話し慣れておられるので、滑るような、しかも聞き手をひきつける表現や身振り手振りには学ぶところが多く感じられました。
始まるとその方から、近くの方と名刺交換でもしながら、それぞれの好きな言葉について話してみてくださいとの指示です。
私は、孔子の
「心の欲する処に従えども矩を越えず」。
3人のグループでしたが、それぞれの方がご自分の言葉を説明をするようになっていましたが、私の番になったときには時間切れで説明せずになってしまいました。
お二人は若い男女。
そして最後の頃になって、その先生から今ご自分が思いついた言葉を一文字であらわしてくださいとの要求です。
私は「輝」にしました。
咄嗟の事で理由など考えている暇はありませんでしたが、結果については良い言葉を思いついたものだと我ながら感心をした次第です。
ですから理由は後から取ってつけることになってしまいました。
その取ってつけた様な理由。
もうそろそろ輝きを失う世代だから、今一度輝きを、
再び輝きを取り戻すことで、影の部分を際立たせる
、
影の部分、負の部分を今一度再確認を、
これからも自分磨きの工夫や努力を。
目立たなくても、常に自分の心に光を、
・・・・・
『太陽が照れば塵も輝く。ゲーテ』
『光のすばらしい輝きはその影がなければ存在しえない。
人生は一つの全体であって、
善も悪もともに受け入れられねばならないのである。
チャーチル』
Posted by mister_kei0918 at
15:55
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2009年05月29日
チャンスは誰にも訪れる
チャンスは誰にも訪れる
チャンスは匂いがついているわけでもありませんし、音を奏でるわけでもありません。
風のように肌に触れてくれるわけでもなく、光のように私どもに近寄る姿が見えるわけでもありません。
所謂、5感で感じることは不可能ですよね。
第6感とでも言うのでしょうかね。
経営でも飛躍のチャンス、打って出るチャンス、タイムングをうまく捕まえる人がいます。
恋愛でもそうです。
相手を捕まえるテクニックもそうですが、相手の心をくすぐるチャンスやつぼをしかと心得ていたりもします。
母性をくすぐる要領を自然と身につけていたりして。
どうも学ばずして持っている天性とも言うべきものを身につけている人もいるようです。
チャンスをチャンスとして捉える力。
同じチャンスが廻ってきても感じる人、感じない人、無視する人がいるもの。
普段から、廻って来たと感じるチャンスは手放さない、逃がさない、無視しない構えが大切でしょう。
私は「機会損失、チャンスロス」という言葉が大好きです。
廻ってきた機会は出来るだけ一応、受け止めてみるようにしています。
受け止めてみて、全く不要なチャンスなのか、無駄なことなのか、有用に働くチャンスなのかを判断するようにしています。
また、大事なことは自分でもチャンスを作り出すことに勤めることの大切さです。
与えられたチャンス、廻りまわってくるチャンスを待つだけではなく、チャンスを作り出すために自らチャンスを作ることもまた大切なことのようです。
平等ではないかもしれませんが、チャンスは誰にでも確実に訪れているものでしょう。
生かすも殺すも自分次第。
生かしたチャンスがとんでもない幸せへの引き金だったり致します。
『チャンスに出会わない人間は一人もいない。
それをチャンスにできなかっただけである。アンドリューカーネギー』
チャンスは匂いがついているわけでもありませんし、音を奏でるわけでもありません。
風のように肌に触れてくれるわけでもなく、光のように私どもに近寄る姿が見えるわけでもありません。
所謂、5感で感じることは不可能ですよね。
第6感とでも言うのでしょうかね。
経営でも飛躍のチャンス、打って出るチャンス、タイムングをうまく捕まえる人がいます。
恋愛でもそうです。
相手を捕まえるテクニックもそうですが、相手の心をくすぐるチャンスやつぼをしかと心得ていたりもします。
母性をくすぐる要領を自然と身につけていたりして。
どうも学ばずして持っている天性とも言うべきものを身につけている人もいるようです。
チャンスをチャンスとして捉える力。
同じチャンスが廻ってきても感じる人、感じない人、無視する人がいるもの。
普段から、廻って来たと感じるチャンスは手放さない、逃がさない、無視しない構えが大切でしょう。
私は「機会損失、チャンスロス」という言葉が大好きです。
廻ってきた機会は出来るだけ一応、受け止めてみるようにしています。
受け止めてみて、全く不要なチャンスなのか、無駄なことなのか、有用に働くチャンスなのかを判断するようにしています。
また、大事なことは自分でもチャンスを作り出すことに勤めることの大切さです。
与えられたチャンス、廻りまわってくるチャンスを待つだけではなく、チャンスを作り出すために自らチャンスを作ることもまた大切なことのようです。
平等ではないかもしれませんが、チャンスは誰にでも確実に訪れているものでしょう。
生かすも殺すも自分次第。
生かしたチャンスがとんでもない幸せへの引き金だったり致します。
『チャンスに出会わない人間は一人もいない。
それをチャンスにできなかっただけである。アンドリューカーネギー』
Posted by mister_kei0918 at
23:51
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2009年05月29日
優しくありたいのに
優しくありたいのに
自分の思うようには世の中は進んでくれません。
却って自分の予測を外れたり、望まないほうに進むのがどうも世の中の常のようです。
だからこそ、生き甲斐を見出したり、克服する課題を見つけたりするのかもしれませんね。
思うようになっていたら、多分お互いのぶつかりあいばかりで収集がつかなくなっているでしょうし、それこそ無法地帯の様になるかもしれません。
根っから優しい性格?
正直なところで言えば、
引っ込み思案で、
思い切りがなくて、
後悔ばかりの連続で、
大人しくて、
馬鹿真面目で、
人に正面から意見も出来なくて、
・
・
優しいと表現すれば、望ましい人の姿かもしれませんがその実、私の姿は本来優しいとは言わないかもしれませんね。
でも周りからは優しいとは言われますが。
優しいの意味合いは別にしても、人は自分の本来のあり方を守ろうと自然に出来ているのかもしれません。
あるいはそれを個人的な本能と称してもいいのでしょう。
人それぞれにその人のあり方が本来的にあるような気がするのです。
私は私のあり方。
ですが、時代や社会はそれを許してはくれないのです。
会社を持てば、経営者としてのあり方、
家庭人であればそれなりの、
父親となれば父親としてのあり方に・・・・・
それが人としての成長というのでしょう。
逆にそれが為に成長ではなくて、精神的苦痛を伴い、とんでもない結果を引き起こしたりもするものです。
私の「いつでも優しくありたい」の本来的な願望は時として時代、環境の流れに逆行するものであったりするが故に時には苦痛を伴ったり、自分自身内でも葛藤に発達したりもするものです。
止まっていたいとする自分と成長、発展したとする自分との競り合いにどう対処するかで自分の道も自ずから開けたり、袋小路にはまってみたり、挫折してみたりも致します。
人は変化が有用に働くと、つい嬉しくもなるものです。
変わることに心地よさを感じるようになればしめたもの。
そして、変わってはいけないもの、変わることを頑なに拒むことの結果どうなるかを予見する力、変わって行かねばいけない部分を自分なりの掌握することが大事なようです。
優しいだけが売り物で間いけませんし、頑固一徹だけでも疎んじられすし。
自分の思うようには世の中は進んでくれません。
却って自分の予測を外れたり、望まないほうに進むのがどうも世の中の常のようです。
だからこそ、生き甲斐を見出したり、克服する課題を見つけたりするのかもしれませんね。
思うようになっていたら、多分お互いのぶつかりあいばかりで収集がつかなくなっているでしょうし、それこそ無法地帯の様になるかもしれません。
根っから優しい性格?
正直なところで言えば、
引っ込み思案で、
思い切りがなくて、
後悔ばかりの連続で、
大人しくて、
馬鹿真面目で、
人に正面から意見も出来なくて、
・
・
優しいと表現すれば、望ましい人の姿かもしれませんがその実、私の姿は本来優しいとは言わないかもしれませんね。
でも周りからは優しいとは言われますが。
優しいの意味合いは別にしても、人は自分の本来のあり方を守ろうと自然に出来ているのかもしれません。
あるいはそれを個人的な本能と称してもいいのでしょう。
人それぞれにその人のあり方が本来的にあるような気がするのです。
私は私のあり方。
ですが、時代や社会はそれを許してはくれないのです。
会社を持てば、経営者としてのあり方、
家庭人であればそれなりの、
父親となれば父親としてのあり方に・・・・・
それが人としての成長というのでしょう。
逆にそれが為に成長ではなくて、精神的苦痛を伴い、とんでもない結果を引き起こしたりもするものです。
私の「いつでも優しくありたい」の本来的な願望は時として時代、環境の流れに逆行するものであったりするが故に時には苦痛を伴ったり、自分自身内でも葛藤に発達したりもするものです。
止まっていたいとする自分と成長、発展したとする自分との競り合いにどう対処するかで自分の道も自ずから開けたり、袋小路にはまってみたり、挫折してみたりも致します。
人は変化が有用に働くと、つい嬉しくもなるものです。
変わることに心地よさを感じるようになればしめたもの。
そして、変わってはいけないもの、変わることを頑なに拒むことの結果どうなるかを予見する力、変わって行かねばいけない部分を自分なりの掌握することが大事なようです。
優しいだけが売り物で間いけませんし、頑固一徹だけでも疎んじられすし。
Posted by mister_kei0918 at
12:59
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2009年05月28日
良寛さんの戒め
良寛さんの戒め
平成17年1月26日
昨年末の私の誕生日に友人がくれたお祝いのFAXの中に経営者への戒めの言葉として良寛さんの戒語が掲載されてました。
これは経営者だからというのではなく日常の中でついつい私どもがやっていることで、改めて読んで見ると頷いてしまいます。
時代は違っても人間のやっていることはそんなに変わらないものですね。
良寛禅師戒語
1、こと多き(言葉の多い事)
2、口のはやき
3、話のながき
4、手柄ばなし
5、講釈のながき
6、物言いのはてしなき
7、人の物言い切らぬうちに物言う
8、人の話の邪魔をする
9、さしたる事もなきことをこまごまという
10、物知り顔に言う
11、好んで唐言葉を使う
12、都言葉を覚えて、したり顔に言う
13、よく知らぬことを憚りなく言う
14、若者の無駄話
15、見る事聞く事一つひとつ言う
16、推し量りのことをまことにしていう
17、さしで口
18、よく心得ぬことを人に教える
19、悪しきと知りながら言い通す
〔良寛〕…江戸後期の禅僧、歌人。
出家して諸国を行脚し各地に漂泊転住した。
のちに故郷の越後・国上山の五合庵に定住。
脱俗的な一生を送った。
和歌、俳句、書、詩に秀でる。生き方に通じる天衣無縫さが特徴。
文明が幾ら進んでも人間の精神文化?あり方は普遍なんでしょうか。
進み方が余りにも遅すぎて解らないのでしょうか。
いつも思うのは2600年前の孔子の残した言葉が未だにビンビン響いてくるのは何なのでしょうか。
先人の言葉、残した業績、経験は有難い財産です。
それに巡りあえる人は幸せに誰よりも一歩早く到達できるかも。
平成17年1月26日
昨年末の私の誕生日に友人がくれたお祝いのFAXの中に経営者への戒めの言葉として良寛さんの戒語が掲載されてました。
これは経営者だからというのではなく日常の中でついつい私どもがやっていることで、改めて読んで見ると頷いてしまいます。
時代は違っても人間のやっていることはそんなに変わらないものですね。
良寛禅師戒語
1、こと多き(言葉の多い事)
2、口のはやき
3、話のながき
4、手柄ばなし
5、講釈のながき
6、物言いのはてしなき
7、人の物言い切らぬうちに物言う
8、人の話の邪魔をする
9、さしたる事もなきことをこまごまという
10、物知り顔に言う
11、好んで唐言葉を使う
12、都言葉を覚えて、したり顔に言う
13、よく知らぬことを憚りなく言う
14、若者の無駄話
15、見る事聞く事一つひとつ言う
16、推し量りのことをまことにしていう
17、さしで口
18、よく心得ぬことを人に教える
19、悪しきと知りながら言い通す
〔良寛〕…江戸後期の禅僧、歌人。
出家して諸国を行脚し各地に漂泊転住した。
のちに故郷の越後・国上山の五合庵に定住。
脱俗的な一生を送った。
和歌、俳句、書、詩に秀でる。生き方に通じる天衣無縫さが特徴。
文明が幾ら進んでも人間の精神文化?あり方は普遍なんでしょうか。
進み方が余りにも遅すぎて解らないのでしょうか。
いつも思うのは2600年前の孔子の残した言葉が未だにビンビン響いてくるのは何なのでしょうか。
先人の言葉、残した業績、経験は有難い財産です。
それに巡りあえる人は幸せに誰よりも一歩早く到達できるかも。
Posted by mister_kei0918 at
15:04
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2009年05月26日
仕事は金の為だけ?
仕事は金の為だけ?
平成16年11月9日
ブログを見ていたら仕事は金の為にあるときっぱり言い切る方に出会いました。
私も金を稼ぐ事を否定するのではありません。
昔から人は仕事を通じて人間となるとよく言われます。
そこが遊びと違うところです。
遊びでも多くの事を学びますが仕事を通じて上司や仲間、得意先、仕入先、設備、地域、商品……との関わりの中で協調性を要求されたり、
品質や接客、売上を通じて厳しい側面に立たされたり時には自分の無能さに歯軋りをしたりあまりの悔しさに酒を飲んだり涙したり、
或いは徹夜をして勉強や研究をしたり褒められてみたり、なだめすかされてみたり怒られてみたり、落ち込んだり天狗になってみたり有頂天になったり。
恋愛をしたり新しい人間関係をみつけたり。
いままでと違う自分を再発見したり。
仕事を通じて得た多くの経験や知識知恵は当然、自分の中に蓄積されより以上に自分を高めるのに有用だし、
何よりもそのことは自分の子供や妻、親や親戚や取り巻く全ての人間関係で多いに役立つ事は間違いないし、経験したことが実践されるわけで金の為だけと言い切るには余りにも社会とか仕事の意味を捕まえていない。
例えば山の中で一人で頑張っていても厳しい自然から得るもの、
やさしさや美しさだけでなくその大きさや懐の深さ、時にはしっぺ返しもあり、
強大な力や情け容赦ない姿、理不尽さ、一握りの情けさえも感じさせない、そんな自然の中でも人間は確実に学んでいる。
企業の中でもその人の労働の対価として賃金を払っているけど
実はその人の果たす人的役割や協調性や将来性、人間性を見極めながら賃金は査定されている。
ただ労働の対価とだけ捉えられると空しい人生だし、仕事を通じてどれだけ自分を高めていけるかがまた楽しみだし価値を見い出せる。
そこに新しい自分がいる、今までと違う自分が出来上がる楽しみと発見がある。
成長する自分を想像することも出来るし意欲も出てくる。
競争心だって湧いてくるし多くの夢も実現可能です。
先日、女性社員が職場内のトラブルで問題提起をしてきました。
自分の立場を述べる前に相手の立場を理解しようとしたのか、あなたはどれだけの協力をしたのか、自分の果たすべき役割を考えた事があるのかを問いました。
この職場の中で自分の人間性を向上させる事が出来なければやめた方がいいと諭したのです。
金だけ求めるのも感心しませんし、かといって自分の生涯を考えて人間として頑張る価値がある職場であるのか、そうでなければ見切りをつけて新しい境地を開いた方が賢明でしょう。
私は社員にそんな話をする事があります。
平成16年11月9日
ブログを見ていたら仕事は金の為にあるときっぱり言い切る方に出会いました。
私も金を稼ぐ事を否定するのではありません。
昔から人は仕事を通じて人間となるとよく言われます。
そこが遊びと違うところです。
遊びでも多くの事を学びますが仕事を通じて上司や仲間、得意先、仕入先、設備、地域、商品……との関わりの中で協調性を要求されたり、
品質や接客、売上を通じて厳しい側面に立たされたり時には自分の無能さに歯軋りをしたりあまりの悔しさに酒を飲んだり涙したり、
或いは徹夜をして勉強や研究をしたり褒められてみたり、なだめすかされてみたり怒られてみたり、落ち込んだり天狗になってみたり有頂天になったり。
恋愛をしたり新しい人間関係をみつけたり。
いままでと違う自分を再発見したり。
仕事を通じて得た多くの経験や知識知恵は当然、自分の中に蓄積されより以上に自分を高めるのに有用だし、
何よりもそのことは自分の子供や妻、親や親戚や取り巻く全ての人間関係で多いに役立つ事は間違いないし、経験したことが実践されるわけで金の為だけと言い切るには余りにも社会とか仕事の意味を捕まえていない。
例えば山の中で一人で頑張っていても厳しい自然から得るもの、
やさしさや美しさだけでなくその大きさや懐の深さ、時にはしっぺ返しもあり、
強大な力や情け容赦ない姿、理不尽さ、一握りの情けさえも感じさせない、そんな自然の中でも人間は確実に学んでいる。
企業の中でもその人の労働の対価として賃金を払っているけど
実はその人の果たす人的役割や協調性や将来性、人間性を見極めながら賃金は査定されている。
ただ労働の対価とだけ捉えられると空しい人生だし、仕事を通じてどれだけ自分を高めていけるかがまた楽しみだし価値を見い出せる。
そこに新しい自分がいる、今までと違う自分が出来上がる楽しみと発見がある。
成長する自分を想像することも出来るし意欲も出てくる。
競争心だって湧いてくるし多くの夢も実現可能です。
先日、女性社員が職場内のトラブルで問題提起をしてきました。
自分の立場を述べる前に相手の立場を理解しようとしたのか、あなたはどれだけの協力をしたのか、自分の果たすべき役割を考えた事があるのかを問いました。
この職場の中で自分の人間性を向上させる事が出来なければやめた方がいいと諭したのです。
金だけ求めるのも感心しませんし、かといって自分の生涯を考えて人間として頑張る価値がある職場であるのか、そうでなければ見切りをつけて新しい境地を開いた方が賢明でしょう。
私は社員にそんな話をする事があります。
Posted by mister_kei0918 at
21:06
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2009年05月25日
再び会えるときのために
再び会えるときのために
平成16年10月12日
人にはいつ別れが訪れるとも知れません。
今の私が、今のあなたが明日の命がわかっていれば今日のあり方ももっと真剣なものなのかもしれません。
神様は私たちの明日は誰にもわからないように定められたのです。
ただ死ぬこと以外は。
だから、全ての人々が何事もなかったように今日を過ごし明日を迎えるのでしょう。
明日又再び会えるとしたら出来れば笑顔で会いたいものです。
今日は議論の相手であっても明日会える時は、笑顔でちゃんと挨拶の出来る間柄でありたいものです。
人間の関係はそのようにして深まっていくものなのでしょう。
決して他人行儀ではなく、解り合っている間であればこそ憎まれ口を叩いてみたり、上げへつらって見たり。
再び会える時のために今日こそ貴重な時はないのかもしれません。
『人間関係はこちらの出方次第。あたかも鏡の前に立つようなもの。
こちらが笑えば向こうも笑う。こちらがしかめ面をすれば相手も渋面になる。邑井操』
『もし変化を望むなら、その変化が起こる前に、あなたが変化そのものにならなくてはなりません。ギタ・ベリン』
平成16年10月12日
人にはいつ別れが訪れるとも知れません。
今の私が、今のあなたが明日の命がわかっていれば今日のあり方ももっと真剣なものなのかもしれません。
神様は私たちの明日は誰にもわからないように定められたのです。
ただ死ぬこと以外は。
だから、全ての人々が何事もなかったように今日を過ごし明日を迎えるのでしょう。
明日又再び会えるとしたら出来れば笑顔で会いたいものです。
今日は議論の相手であっても明日会える時は、笑顔でちゃんと挨拶の出来る間柄でありたいものです。
人間の関係はそのようにして深まっていくものなのでしょう。
決して他人行儀ではなく、解り合っている間であればこそ憎まれ口を叩いてみたり、上げへつらって見たり。
再び会える時のために今日こそ貴重な時はないのかもしれません。
『人間関係はこちらの出方次第。あたかも鏡の前に立つようなもの。
こちらが笑えば向こうも笑う。こちらがしかめ面をすれば相手も渋面になる。邑井操』
『もし変化を望むなら、その変化が起こる前に、あなたが変化そのものにならなくてはなりません。ギタ・ベリン』
Posted by mister_kei0918 at
23:00
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2009年05月24日
その程度でいいんでしょうか、15分待ちの1分診療
その程度でいいんでしょうか、15分待ちの1分診療。
病院にも行きませんでしたし、増してや健康診断などした事はありませんでした。
どうしても検診に行かない私も家内や娘、社員の説得で行く羽目になりました。
初めての検診は決して良好な結果ではありませんでした。
お医者さんからは「すぐにでも通院をして治療に心がけてください」。
数値が良くなかったんです。
其の事は家族にも黙っていたのですが、その数ヵ月後ついに痛みが出てきてしまったのです。
大げさにしたくないので、先ほどの検診を受けた総合病院ではなくて近くのクリニックに出掛けることに。
数回通うまでは、病院はそんなものかと思っていたのです。
だって病院へ続けて通ったことがありませんから。
いつも同じことの繰り返し。
「運動はしてますか」
「特に変わったことはありませんか」
ですから、時間にして1分は掛かっていないのではないでしょうか。
症状に変化がないのはいい事ですから、余り話すこともないのかもしれませんがもう少し配慮が必要ではないでしょうか。
ただ、来院する患者を機械的にこなすことに終始しているように思えないでもありません。
と思ってましたら、やはり私と同じような思いで通っている方がいました。
その方は膠着状態にある病気がこの先、好転するのか、或いはどうなるのか不安だったと言われます。
私のように今すぐ短期間にどうなるでもない症状はそれでも我慢できますが、不安定な人や重症な方は不安で仕様がないかもしれませんね。
でもそうは感じていても、通いなれている病院から他への転院は少し勇気が要りますし、要領が分かっていますし、人間関係も出来上がっています。
日本の私どもは主治医とか、セカンドオピニオンとか慣れていませんので、最初に掛かったお医者さんに全幅の信頼をおいてしまいます。
通っているお医者さんは実は誠実な性格の方ではあります。
ところが存じ上げているお医者さんの中には「この人がお医者さんで良いのか」等と思う方も多く存在するものです。
或いは命を預け、最後の砦でもありますから、もう少しどうにかなると嬉しいのですが。
病院にも行きませんでしたし、増してや健康診断などした事はありませんでした。
どうしても検診に行かない私も家内や娘、社員の説得で行く羽目になりました。
初めての検診は決して良好な結果ではありませんでした。
お医者さんからは「すぐにでも通院をして治療に心がけてください」。
数値が良くなかったんです。
其の事は家族にも黙っていたのですが、その数ヵ月後ついに痛みが出てきてしまったのです。
大げさにしたくないので、先ほどの検診を受けた総合病院ではなくて近くのクリニックに出掛けることに。
数回通うまでは、病院はそんなものかと思っていたのです。
だって病院へ続けて通ったことがありませんから。
いつも同じことの繰り返し。
「運動はしてますか」
「特に変わったことはありませんか」
ですから、時間にして1分は掛かっていないのではないでしょうか。
症状に変化がないのはいい事ですから、余り話すこともないのかもしれませんがもう少し配慮が必要ではないでしょうか。
ただ、来院する患者を機械的にこなすことに終始しているように思えないでもありません。
と思ってましたら、やはり私と同じような思いで通っている方がいました。
その方は膠着状態にある病気がこの先、好転するのか、或いはどうなるのか不安だったと言われます。
私のように今すぐ短期間にどうなるでもない症状はそれでも我慢できますが、不安定な人や重症な方は不安で仕様がないかもしれませんね。
でもそうは感じていても、通いなれている病院から他への転院は少し勇気が要りますし、要領が分かっていますし、人間関係も出来上がっています。
日本の私どもは主治医とか、セカンドオピニオンとか慣れていませんので、最初に掛かったお医者さんに全幅の信頼をおいてしまいます。
通っているお医者さんは実は誠実な性格の方ではあります。
ところが存じ上げているお医者さんの中には「この人がお医者さんで良いのか」等と思う方も多く存在するものです。
或いは命を預け、最後の砦でもありますから、もう少しどうにかなると嬉しいのですが。
Posted by mister_kei0918 at
17:46
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2009年05月23日
体育祭の頃が一番に嫌な時期でした
体育祭の頃が一番に嫌な時期でした
今頃は市内の小学校の子供達の運動会のシーズンです。
楽しかったですね。
勉強の出来ない私に取っては、活躍の私を見てもらえる最大の日でした。
私は別に運動が嫌なわけでもなく、根性がないわけでもありません。
人並み以上に頑張るのは大好きですし、運動能力的にも多分、普通か若しくは少し言い程度か。
人は自分の事は少し高めに評価しますから、普通程度ということに致します。
中学時代は水泳も人並み以上でしたし、当時流行っていた相撲では全校大会で準優勝もしたことがありますからまんざらでもないでしょ。
部活は一年生がバレーボール、
二年生がバスケット。
かなり頑張った生徒だと思います。
三年生は受験勉強に目覚めましたので、部活は一切やめてしまいました。
勉強に目覚めた理由がふるっているんです。
当時、仲良くしていた友人たち、というかどちらかというと悪い部類の友人たちと付き合っていたのですが、中のボスの彼女が私に擦り寄ったとの理由でいじめの対象とされ、その悔しさから勉学に精を出し始めたというのが正直なところです。
別に彼女とどうということはなかったんですよ。
全くの誤解、弁解の余地もありませんでした。
でも人生を振り返ってみると却ってそれが良かったんです。
それからが新しい私の今に続く人生が始まったのですから。
勉強に一生懸命になるようなったのは良かったのですが、
高校に入る頃から、体育の時間、体育祭の時期は私を大変に悩み、苦しませることになってしまいました。
それがその後、約20年間くらい私を悩まし続けることになってしまいます。
人は一通りには出来ていませんし、良いところ悪いところ、得て不得手、出来不出来、混在の動物です。
それが悩みに繋がらなければ問題はないのですが、他人から見ると少しのこと、些細と思われることが本人にとっては人生を捨て去るほどの一大事になってしまいます。
それをちゃんと受け入れていける人、どうしても承知しかねる人、同居できる人・・・人は様々です。
今は乗り越えたというか、諦めたというか、カッコいい言葉で言えば達観視できるようになったとか、そんなところでしょうか。
或いは今は重大な関心事が別にあることや、そのことによって人生がマイナスには決してならないことを心底から覚えたということでしょう。
或いはそんなことがあったから今の自分が出来たなどと、自分に言い聞かせる此の頃です。
今頃は市内の小学校の子供達の運動会のシーズンです。
楽しかったですね。
勉強の出来ない私に取っては、活躍の私を見てもらえる最大の日でした。
私は別に運動が嫌なわけでもなく、根性がないわけでもありません。
人並み以上に頑張るのは大好きですし、運動能力的にも多分、普通か若しくは少し言い程度か。
人は自分の事は少し高めに評価しますから、普通程度ということに致します。
中学時代は水泳も人並み以上でしたし、当時流行っていた相撲では全校大会で準優勝もしたことがありますからまんざらでもないでしょ。
部活は一年生がバレーボール、
二年生がバスケット。
かなり頑張った生徒だと思います。
三年生は受験勉強に目覚めましたので、部活は一切やめてしまいました。
勉強に目覚めた理由がふるっているんです。
当時、仲良くしていた友人たち、というかどちらかというと悪い部類の友人たちと付き合っていたのですが、中のボスの彼女が私に擦り寄ったとの理由でいじめの対象とされ、その悔しさから勉学に精を出し始めたというのが正直なところです。
別に彼女とどうということはなかったんですよ。
全くの誤解、弁解の余地もありませんでした。
でも人生を振り返ってみると却ってそれが良かったんです。
それからが新しい私の今に続く人生が始まったのですから。
勉強に一生懸命になるようなったのは良かったのですが、
高校に入る頃から、体育の時間、体育祭の時期は私を大変に悩み、苦しませることになってしまいました。
それがその後、約20年間くらい私を悩まし続けることになってしまいます。
人は一通りには出来ていませんし、良いところ悪いところ、得て不得手、出来不出来、混在の動物です。
それが悩みに繋がらなければ問題はないのですが、他人から見ると少しのこと、些細と思われることが本人にとっては人生を捨て去るほどの一大事になってしまいます。
それをちゃんと受け入れていける人、どうしても承知しかねる人、同居できる人・・・人は様々です。
今は乗り越えたというか、諦めたというか、カッコいい言葉で言えば達観視できるようになったとか、そんなところでしょうか。
或いは今は重大な関心事が別にあることや、そのことによって人生がマイナスには決してならないことを心底から覚えたということでしょう。
或いはそんなことがあったから今の自分が出来たなどと、自分に言い聞かせる此の頃です。
Posted by mister_kei0918 at
16:04
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2009年05月22日
若いだけでも素晴らしい
若いだけでも素晴らしい
こんな文章を書くと、如何にも人生の甘いも粋もか嗅ぎ分けて、大方の人生を経験し尽くしているような、或いは人生を達観しているように思われるかもしれませんが決してそんなことはないのです。
でも、年寄りの部類に入ってきたのは間違いがないようです。
だって、そろそろ白髪も表面化してきましたし、
歩いていてもちょっとした凸凹にも躓いたり、
孫も二人、この5月には3人目が生まれます。
同じことの繰り返しを口にしたり、
老眼にもなりましたし、
用件を途中で忘れて、また振り出しに戻って思い出したり。
若いものにはまだ負けない等と軽口を叩いたり、
強がったりしてますが、実は内心、つくづく若いものには叶わないと感じることがあります。
そりゃ老練さも大切なことですが、若さには夢や希望、可能性、無限、成長を思わせる響きを感じます。
若さの若の象形は
「髪をふりみだして、我を忘れ、神意を聞き取る巫女の形」となっています。
やはり一心不乱、一生懸命・・・そんな姿を想像させます。
そうあって欲しいものです。
ですが若い頃にはそんな事への思いにはなかなか辿り着かないものです。
つい眼前のことに胸がいっぱい。
若い方々が夢を追い求め、希望に胸膨らせ、生き生きとする社会こそ、将来に期待が持てます。
今は若い方々に余りにも厳しい現実を突きつけていますが、近い将来そんな社会の到来を望みたいものです。
本当は若いだけでも素晴らしいものです。
若い人々が豊かな感性を育み、それぞれに力量が発揮できる社会が来て欲しい。
『先輩からは知恵を、後輩からは感覚を汲むがよい。西洋のことわざ』
こんな文章を書くと、如何にも人生の甘いも粋もか嗅ぎ分けて、大方の人生を経験し尽くしているような、或いは人生を達観しているように思われるかもしれませんが決してそんなことはないのです。
でも、年寄りの部類に入ってきたのは間違いがないようです。
だって、そろそろ白髪も表面化してきましたし、
歩いていてもちょっとした凸凹にも躓いたり、
孫も二人、この5月には3人目が生まれます。
同じことの繰り返しを口にしたり、
老眼にもなりましたし、
用件を途中で忘れて、また振り出しに戻って思い出したり。
若いものにはまだ負けない等と軽口を叩いたり、
強がったりしてますが、実は内心、つくづく若いものには叶わないと感じることがあります。
そりゃ老練さも大切なことですが、若さには夢や希望、可能性、無限、成長を思わせる響きを感じます。
若さの若の象形は
「髪をふりみだして、我を忘れ、神意を聞き取る巫女の形」となっています。
やはり一心不乱、一生懸命・・・そんな姿を想像させます。
そうあって欲しいものです。
ですが若い頃にはそんな事への思いにはなかなか辿り着かないものです。
つい眼前のことに胸がいっぱい。
若い方々が夢を追い求め、希望に胸膨らせ、生き生きとする社会こそ、将来に期待が持てます。
今は若い方々に余りにも厳しい現実を突きつけていますが、近い将来そんな社会の到来を望みたいものです。
本当は若いだけでも素晴らしいものです。
若い人々が豊かな感性を育み、それぞれに力量が発揮できる社会が来て欲しい。
『先輩からは知恵を、後輩からは感覚を汲むがよい。西洋のことわざ』
Posted by mister_kei0918 at
21:42
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2009年05月21日
逢瀬を重ねるごとに情は熱くなる
逢瀬を重ねるごとに情は熱くなる
顔を見るのも嫌というほど、毛嫌いをすることもあります。
箸の上げ下ろしの音さえも聞きたくないほどに、嫌いになることもあるものです。
或いは存在そのものを否定してしまうこともあるものです。
こんな事を記載していると、私の性格が卑しいものに見えますし、人間嫌いにも見えてしまいます。
一般論ですよ。
本来は逆ですよね。
逢えば合えば逢うほど、心は通うものですし、情も移るものです。
言葉を交わせば交わすほどに人の心は打ち解けあい、和み、信頼を増していくものです。
そこに笑顔が加われば尚更の事です。
長い付き合いの中には行き違いがあったり、誤解を生じたり、わだかまりが生じたりも致します。
でも近くにいれば、しげく顔を合わすもの。
自然と拠りを戻したり、仲直りの機会だって存在するものです。
親子の間は象徴的です。
朝から晩まで喧嘩をしているようで、罵り合ったりしてますが明日の朝には何事もなかったのかと上手に修復されるもの。
夫婦でもそうです。
外見は仲の悪い、喧嘩の耐えない夫婦と見えていても、案外うまくいっていたりも。
友人の間でも売り言葉に買い言葉で、罵倒しあっている中にこそ信頼が横たわっていたりするものです。
刎頚の友という奴でしょうか。
人は常に逢うのが一番。
遠距離恋愛が至って危ない状況になりがちなのは、多くの方が経験していることではないでしょうか。
離れている彼女よりは身近のいる彼女が有利に働くのは目に見えています。
本当はそれではいけないのでしょうが。
人を愛する心は、そんなものではないでしょうか。
顔を見るのも嫌というほど、毛嫌いをすることもあります。
箸の上げ下ろしの音さえも聞きたくないほどに、嫌いになることもあるものです。
或いは存在そのものを否定してしまうこともあるものです。
こんな事を記載していると、私の性格が卑しいものに見えますし、人間嫌いにも見えてしまいます。
一般論ですよ。
本来は逆ですよね。
逢えば合えば逢うほど、心は通うものですし、情も移るものです。
言葉を交わせば交わすほどに人の心は打ち解けあい、和み、信頼を増していくものです。
そこに笑顔が加われば尚更の事です。
長い付き合いの中には行き違いがあったり、誤解を生じたり、わだかまりが生じたりも致します。
でも近くにいれば、しげく顔を合わすもの。
自然と拠りを戻したり、仲直りの機会だって存在するものです。
親子の間は象徴的です。
朝から晩まで喧嘩をしているようで、罵り合ったりしてますが明日の朝には何事もなかったのかと上手に修復されるもの。
夫婦でもそうです。
外見は仲の悪い、喧嘩の耐えない夫婦と見えていても、案外うまくいっていたりも。
友人の間でも売り言葉に買い言葉で、罵倒しあっている中にこそ信頼が横たわっていたりするものです。
刎頚の友という奴でしょうか。
人は常に逢うのが一番。
遠距離恋愛が至って危ない状況になりがちなのは、多くの方が経験していることではないでしょうか。
離れている彼女よりは身近のいる彼女が有利に働くのは目に見えています。
本当はそれではいけないのでしょうが。
人を愛する心は、そんなものではないでしょうか。
Posted by mister_kei0918 at
21:49
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2009年05月20日
総会シーズンの始まりです
総会シーズンの始まりです
企業や団体によって決算時期が異なりますので、全ての総会が集中するわけではありませんが、その大半は3月末が年度末ですのでこれからの一ヶ月程度が集中時期です。
公益法人、各種団体、組合や企業の場合は決算後の2ヶ月以内、
マンションの管理組合などのような任意な団体は3ヶ月以内などでしょうか。
3月の年度末がほとんどですので、5月中旬から6月末にかけて総会ラッシュとなります。
私も5月10日から始まった総会は、これからが本番です。
今日は2箇所、
明日が1箇所、
明後日が2箇所
・
・
沖縄や奄美大島地方が入梅となりました。
福岡地方も梅雨が近いからといって湿っぽい総会にはなって欲しくないものです。
政治も経済も混迷のままで、
先行きの見えない状態が続きます。
せめて総会だけは希望を掲げて、明るく前進の決意をしたいものです。
前期で幕を閉じる団体も出てきてしまいました。
長い歴史を重ねてきましたが時代の趨勢や状況には勝てなかったようです。
社会では様々な変化や変動が絶え間なく起き続けています。
目の離せない状況になっています。
その瞬間、瞬間に判断を要求される時代ともなりました。
昔のようなのんびりとした流暢な決断は時代に置いてきぼりになってしまいます。
多分、今年の大企業の総会も随分と荒れたものになるような気がしますが如何でしょうか。
経済が順調に動かないと、あらゆるところに歪や混迷が起こってきます。
来年の総会はにこにこ顔で開催が出来るようにあって欲しいものです。
企業や団体によって決算時期が異なりますので、全ての総会が集中するわけではありませんが、その大半は3月末が年度末ですのでこれからの一ヶ月程度が集中時期です。
公益法人、各種団体、組合や企業の場合は決算後の2ヶ月以内、
マンションの管理組合などのような任意な団体は3ヶ月以内などでしょうか。
3月の年度末がほとんどですので、5月中旬から6月末にかけて総会ラッシュとなります。
私も5月10日から始まった総会は、これからが本番です。
今日は2箇所、
明日が1箇所、
明後日が2箇所
・
・
沖縄や奄美大島地方が入梅となりました。
福岡地方も梅雨が近いからといって湿っぽい総会にはなって欲しくないものです。
政治も経済も混迷のままで、
先行きの見えない状態が続きます。
せめて総会だけは希望を掲げて、明るく前進の決意をしたいものです。
前期で幕を閉じる団体も出てきてしまいました。
長い歴史を重ねてきましたが時代の趨勢や状況には勝てなかったようです。
社会では様々な変化や変動が絶え間なく起き続けています。
目の離せない状況になっています。
その瞬間、瞬間に判断を要求される時代ともなりました。
昔のようなのんびりとした流暢な決断は時代に置いてきぼりになってしまいます。
多分、今年の大企業の総会も随分と荒れたものになるような気がしますが如何でしょうか。
経済が順調に動かないと、あらゆるところに歪や混迷が起こってきます。
来年の総会はにこにこ顔で開催が出来るようにあって欲しいものです。
Posted by mister_kei0918 at
11:20
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2009年05月19日
「喜びと悲しみは二つで一つ」
「喜びと悲しみは二つで一つ」
若い方ならご存知の曲だと思います。
私も数度耳にした事があり、私ども年配者にも聞きやすい曲ですし、歌詞が極めて共鳴しやすいものですから一部をつい覚えてしまいました。
「喜びと悲しみは二つで一つ」
若い方々がそんな思いで日常を過ごしてくれるなら、本当に安堵いたします。
マスコミの報道もそうですし、いつも悲観的で、自虐的で、退廃、悲壮な事柄やニュースに囲まれているといっても言い過ぎではないでしょう。
人生は喜びと悲しみが交錯する中で懸命に生きることに意義もあり、生き甲斐も見出せるものです。
様々な葛藤の中から喜びを見出したり、幸せを味わったりするものです。
いつも幸せでもいけませんし、増してやいつも悲しみに暮れていても人生に悲観してしまいます。
「喜びと悲しみは二つで一つ」
喜びと悲しみは交互で来るものでもありません。
喜びは得てして小さく感じ、悲しみは世界で一番大きいものを背負っているようにも思えます。
不思議なものですが、悲しみや苦しみは経験を重ねることで同じ大きさであっても次は難なく乗り越えるものです。
喜びは本当はもっと大きいものの筈なのにどうしても小さく感じてしまいます。
喜びを倍加し、悲しみを小さくする方法。
自分の喜びを倍加したければ、まず人に喜びの機会を与えることと
自分へ喜びが巡ってきたときには周囲に分け与えることのような気がします。
喜びをもらった人は私へお返しの喜びをくれるものです。
分け与えた喜びは祝福という素晴らしい喜びを連れて私へ戻ってきます。
悲しみを小さくする方法
人を哀しませるような事は出来るだけ避けること、
悲しみを打ち明ける友人知人を日頃から作っておくこと、
人の悲しみの相談者にもなってあげること、
人には乗り越えられない悲しみは来ないといいます。
つまり私が乗り越えられる悲しみしか来ないのです。
乗り越えた暁には喜びや幸せが待っていることが多いものです。
そう信じることではないでしょうか。
経験は尊いものです。
喜びの時には次の悲しみの為に備えをし、
悲しみの時には次なる喜びを想像逞しくすることのようです。
そのように考えますと悲しみに打ちひしがれたり、挫折の道を歩んだり、人生を悲観することはもうそこに潜んでいる幸せをみずみず捨て去るもののように思えます。
或いは悲しみも喜びを待ち受ける一里塚ではないでしょうか。
若い方ならご存知の曲だと思います。
私も数度耳にした事があり、私ども年配者にも聞きやすい曲ですし、歌詞が極めて共鳴しやすいものですから一部をつい覚えてしまいました。
「喜びと悲しみは二つで一つ」
若い方々がそんな思いで日常を過ごしてくれるなら、本当に安堵いたします。
マスコミの報道もそうですし、いつも悲観的で、自虐的で、退廃、悲壮な事柄やニュースに囲まれているといっても言い過ぎではないでしょう。
人生は喜びと悲しみが交錯する中で懸命に生きることに意義もあり、生き甲斐も見出せるものです。
様々な葛藤の中から喜びを見出したり、幸せを味わったりするものです。
いつも幸せでもいけませんし、増してやいつも悲しみに暮れていても人生に悲観してしまいます。
「喜びと悲しみは二つで一つ」
喜びと悲しみは交互で来るものでもありません。
喜びは得てして小さく感じ、悲しみは世界で一番大きいものを背負っているようにも思えます。
不思議なものですが、悲しみや苦しみは経験を重ねることで同じ大きさであっても次は難なく乗り越えるものです。
喜びは本当はもっと大きいものの筈なのにどうしても小さく感じてしまいます。
喜びを倍加し、悲しみを小さくする方法。
自分の喜びを倍加したければ、まず人に喜びの機会を与えることと
自分へ喜びが巡ってきたときには周囲に分け与えることのような気がします。
喜びをもらった人は私へお返しの喜びをくれるものです。
分け与えた喜びは祝福という素晴らしい喜びを連れて私へ戻ってきます。
悲しみを小さくする方法
人を哀しませるような事は出来るだけ避けること、
悲しみを打ち明ける友人知人を日頃から作っておくこと、
人の悲しみの相談者にもなってあげること、
人には乗り越えられない悲しみは来ないといいます。
つまり私が乗り越えられる悲しみしか来ないのです。
乗り越えた暁には喜びや幸せが待っていることが多いものです。
そう信じることではないでしょうか。
経験は尊いものです。
喜びの時には次の悲しみの為に備えをし、
悲しみの時には次なる喜びを想像逞しくすることのようです。
そのように考えますと悲しみに打ちひしがれたり、挫折の道を歩んだり、人生を悲観することはもうそこに潜んでいる幸せをみずみず捨て去るもののように思えます。
或いは悲しみも喜びを待ち受ける一里塚ではないでしょうか。
Posted by mister_kei0918 at
13:03
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2009年05月18日
2600年前にも問われた政治家の資格
2600年前にも問われた政治家の資格
私のブログに時々、登場してくる孔子の言葉ですが、
昨日のブログにも記載しましたが敢えて今日また取り上げてみました。
政治の世界が動いています。
数ヶ月以内には衆議院選挙もありますから、今年は経済と政治の混迷の年になりそうです。
産みの苦しみという言葉があります。
今年がそうだとすれば、来年くらいは希望の持てる、落ち着いた、安心できる社会の実現に向けて走り出して欲しいものです。
政治に大いに敏腕を振るい、リーダーシップを発揮し、行動にも国民に範を示し、世界に冠たる日本の将来への道筋を指し示して欲しいものです。
政治に志すということはそういうことではないでしょうか。
私どもとそう変わり映えのしない能力や考え方、姿勢の人であれば政治家にはなって欲しくないものです。人や社会、国の為にわが身を投げ打つ位の覚悟のある人であって欲しいものです。
2600年前の孔子の言葉があります。
この言葉を今の政治家の皆さんに肝に銘じて頂きたいものです。
孔子が政治家の資格について尋ねられて、
「五美を実行し、四悪を排除できれば資格が充分だ」と答えています。
その五美とは?と問われて
「上に立つ者は、人民に恩恵を与えてしかも国庫を乏しくしないこと。
人民を使役してしかも不満を抱かせぬこと。
気宇宏大であってしかも寡欲であること。
泰然としていてしかも傲慢でないこと。
最後に、威厳があってしかも圧迫を感じさせぬこと。
この五つがそれだ。」
では、四悪とは何ですか?と問われて、
「社会教育をおろそかにしておきながら、
いきなり法律にそむいたといって人民を処罰するやり方、
これを残忍といわずに何といおう。
指導もせずにいて実績をあげろと強制する、
無茶としかいいようがない。
はっきり命令を下さずにいながら、突如として実行を迫る、
それは非道というものだ。
出すべきものもケチケチ出し惜しむもったいぶったやり方、
これが小役人根性である」
私のブログに時々、登場してくる孔子の言葉ですが、
昨日のブログにも記載しましたが敢えて今日また取り上げてみました。
政治の世界が動いています。
数ヶ月以内には衆議院選挙もありますから、今年は経済と政治の混迷の年になりそうです。
産みの苦しみという言葉があります。
今年がそうだとすれば、来年くらいは希望の持てる、落ち着いた、安心できる社会の実現に向けて走り出して欲しいものです。
政治に大いに敏腕を振るい、リーダーシップを発揮し、行動にも国民に範を示し、世界に冠たる日本の将来への道筋を指し示して欲しいものです。
政治に志すということはそういうことではないでしょうか。
私どもとそう変わり映えのしない能力や考え方、姿勢の人であれば政治家にはなって欲しくないものです。人や社会、国の為にわが身を投げ打つ位の覚悟のある人であって欲しいものです。
2600年前の孔子の言葉があります。
この言葉を今の政治家の皆さんに肝に銘じて頂きたいものです。
孔子が政治家の資格について尋ねられて、
「五美を実行し、四悪を排除できれば資格が充分だ」と答えています。
その五美とは?と問われて
「上に立つ者は、人民に恩恵を与えてしかも国庫を乏しくしないこと。
人民を使役してしかも不満を抱かせぬこと。
気宇宏大であってしかも寡欲であること。
泰然としていてしかも傲慢でないこと。
最後に、威厳があってしかも圧迫を感じさせぬこと。
この五つがそれだ。」
では、四悪とは何ですか?と問われて、
「社会教育をおろそかにしておきながら、
いきなり法律にそむいたといって人民を処罰するやり方、
これを残忍といわずに何といおう。
指導もせずにいて実績をあげろと強制する、
無茶としかいいようがない。
はっきり命令を下さずにいながら、突如として実行を迫る、
それは非道というものだ。
出すべきものもケチケチ出し惜しむもったいぶったやり方、
これが小役人根性である」
Posted by mister_kei0918 at
14:00
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2009年05月17日
次期は選りすぐられた政治家のみで挙国体制内閣若しくは大連立を
次期は選りすぐられた政治家のみで挙国体制内閣、若しくは大連立を
最近の政治家の不祥事や堕落、悲しくなってきます。
国を任せられる人は果たして存在するのかと危惧を致します。
昨日は民主党の代表選挙が衆参議員総会で行われました。
私自身は政治や宗教は余り人と話すことは好きではありません。
思想、信条、信教はそれぞれに自由ですし、他人から強制されるものではないと思っているからです。
特定の政党や政治家を語るのも嫌なものです。私ごときがしかも公器?を使って。
本来、国民の財産と安全を確保するために法律を作り、守り監視する立場にある人々が国民の信頼を失い、嘲笑いの対象になってどうするのでしょうか。
私は政党、思想信条を論ずることは好きではありませんが、もうそろそろしっかりした政治家の登場がないと日本が世界から置き去りになってしまいそうな気がします。
今は良く明治維新に似ているといわれます。
似ているのでしょうか。
維新の時代は世の中を憂える若き志士たちが命を張って、私心を捨て時代に立ち向かったと理解しています。
果たして誰が命を張って何をしているのでしょうか。
ただ、時代が求めている様相が似ているだけで。
もう動かないといけないでしょう。
政権交代とか、どの政党がどうとかということではなく。
いつあるか知れない総選挙は、こんなことになればいいと個人的には思っています。
今度の選挙は政党の壁をなくして、本当に政治を託せる人を選ぶ選挙であって欲しい。
個人としてしっかりマニュフェストを作ってもらい、人間がしっかり見える選挙で大臣候補を直接に選ぶ選挙。
この人なら国を、自分の命を托せる人を真剣に選ぶ選挙であって欲しい。
もう政党がどうとか、地盤がどうとか、
個人的つながりがあるとか、長いものに巻かれないで、
昔からあの人に投票しているからとか、
有名人だからとか、
自分へ利益を誘導してくれそうだからとか・・・・・
無理は承知。
政治団体等を作って所属もしていましたから、十分わかっているつもりですが。
政党政治の重要性や存在価値も分かりますし。
「国の政治はわれわれ国民のレベルでしかない」等といわれます。
私どもがやはりしっかり勉強しないといけないということでしょう。
与野党の政治家の資質がいつも問われます。
選んだわれわれの資質を問われているのでしょう。
ドイツのビスマルクや日本の世直し奉行のような方は出てこないのでしょうか。
2600年前の孔子の言葉があります。
孔子が政治家の資格について尋ねられて、
「五美を実行し、四悪を排除できれば資格が充分だ」と答えています。
その五美とは?と問われて
「上に立つ者は、人民に恩恵を与えてしかも国庫を乏しくしないこと。
人民を使役してしかも不満を抱かせぬこと。
気宇宏大であってしかも寡欲であること。
泰然としていてしかも傲慢でないこと。
最後に、威厳があってしかも圧迫を感じさせぬこと。この五つがそれだ。」
では、四悪とは何ですか?と問われて、
「社会教育をおろそかにしておきながら、
いきなり法律にそむいたといって人民を処罰するやり方、これを残忍といわずに何といおう。
指導もせずにいて実績をあげろと強制する、無茶としかいいようがない。
はっきり命令を下さずにいながら、突如として実行を迫る、それは非道というものだ。
出すべきものもケチケチ出し惜しむもったいぶったやり方、これが小役人根性である」
こんな政治家は望むのが不可能なのでしょうか。
或いは有能、優秀、真の政治家は育たない土壌なのでしょうか。
最近の政治家の不祥事や堕落、悲しくなってきます。
国を任せられる人は果たして存在するのかと危惧を致します。
昨日は民主党の代表選挙が衆参議員総会で行われました。
私自身は政治や宗教は余り人と話すことは好きではありません。
思想、信条、信教はそれぞれに自由ですし、他人から強制されるものではないと思っているからです。
特定の政党や政治家を語るのも嫌なものです。私ごときがしかも公器?を使って。
本来、国民の財産と安全を確保するために法律を作り、守り監視する立場にある人々が国民の信頼を失い、嘲笑いの対象になってどうするのでしょうか。
私は政党、思想信条を論ずることは好きではありませんが、もうそろそろしっかりした政治家の登場がないと日本が世界から置き去りになってしまいそうな気がします。
今は良く明治維新に似ているといわれます。
似ているのでしょうか。
維新の時代は世の中を憂える若き志士たちが命を張って、私心を捨て時代に立ち向かったと理解しています。
果たして誰が命を張って何をしているのでしょうか。
ただ、時代が求めている様相が似ているだけで。
もう動かないといけないでしょう。
政権交代とか、どの政党がどうとかということではなく。
いつあるか知れない総選挙は、こんなことになればいいと個人的には思っています。
今度の選挙は政党の壁をなくして、本当に政治を託せる人を選ぶ選挙であって欲しい。
個人としてしっかりマニュフェストを作ってもらい、人間がしっかり見える選挙で大臣候補を直接に選ぶ選挙。
この人なら国を、自分の命を托せる人を真剣に選ぶ選挙であって欲しい。
もう政党がどうとか、地盤がどうとか、
個人的つながりがあるとか、長いものに巻かれないで、
昔からあの人に投票しているからとか、
有名人だからとか、
自分へ利益を誘導してくれそうだからとか・・・・・
無理は承知。
政治団体等を作って所属もしていましたから、十分わかっているつもりですが。
政党政治の重要性や存在価値も分かりますし。
「国の政治はわれわれ国民のレベルでしかない」等といわれます。
私どもがやはりしっかり勉強しないといけないということでしょう。
与野党の政治家の資質がいつも問われます。
選んだわれわれの資質を問われているのでしょう。
ドイツのビスマルクや日本の世直し奉行のような方は出てこないのでしょうか。
2600年前の孔子の言葉があります。
孔子が政治家の資格について尋ねられて、
「五美を実行し、四悪を排除できれば資格が充分だ」と答えています。
その五美とは?と問われて
「上に立つ者は、人民に恩恵を与えてしかも国庫を乏しくしないこと。
人民を使役してしかも不満を抱かせぬこと。
気宇宏大であってしかも寡欲であること。
泰然としていてしかも傲慢でないこと。
最後に、威厳があってしかも圧迫を感じさせぬこと。この五つがそれだ。」
では、四悪とは何ですか?と問われて、
「社会教育をおろそかにしておきながら、
いきなり法律にそむいたといって人民を処罰するやり方、これを残忍といわずに何といおう。
指導もせずにいて実績をあげろと強制する、無茶としかいいようがない。
はっきり命令を下さずにいながら、突如として実行を迫る、それは非道というものだ。
出すべきものもケチケチ出し惜しむもったいぶったやり方、これが小役人根性である」
こんな政治家は望むのが不可能なのでしょうか。
或いは有能、優秀、真の政治家は育たない土壌なのでしょうか。
Posted by mister_kei0918 at
16:44
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2009年05月16日
福澤諭吉と西郷南洲翁
福澤諭吉と西郷南洲翁
尊敬して止まない西郷隆盛であります。
いつもは南洲翁と呼ばせていただいています。
文面上で敬称を付けずに呼び捨ての格好になることをお許し下さい。
明治維新に命を掛けて、近代日本へと導いた人の代表でしょう。
「敬天愛人」の言葉はいつも胸にズシンと来ます。
『天を敬い、人を愛す・・・・・
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
(現代訳)
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。
天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」 (西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓より抜粋)』
日本最後の内戦といわれる西南の役(1877年・明治10年)を最後にあの田原坂の戦いで破れ、鹿児島の城山の洞窟にて最後を遂げられました。
今、福岡市美術館にて福澤諭吉展が開催されています。
チケットは手に入れてますが、まだ出掛けてはいません。
先日、西日本新聞に福澤諭吉と西郷隆盛の関わりが記載されていました。
全く知らなかったことでした。
福澤諭吉が西南戦争を起こした西郷隆盛を擁護し世論に憤慨したという記事に接したのです。
福澤諭吉は停戦や西郷側の言い分を聞く公正な裁判を求める建白書を起草し、時の太政大臣に提出させた事。
戦争が鎮圧された後も武力を用いた事は同意しないが、西郷の行動を擁護し、依然として賊臣とされていた頃に銅像建設を呼びかける趣意書を起草したとの事であります。
驚きでした。
西郷隆盛は1828~1877(明治10年没、49歳)
福澤諭吉は1835~1901(明治34年没、66歳)
西郷隆盛が7歳年上、明治維新が1868年、40歳と33歳。
時代的にも世代的にも丁度重なる時期ではありますが、まさかこんな接点や関わりがあったとは存じませんでした。
福澤諭吉展はしっかり拝見してきます。
ちなみに福澤諭吉の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」。
「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」
尊敬して止まない西郷隆盛であります。
いつもは南洲翁と呼ばせていただいています。
文面上で敬称を付けずに呼び捨ての格好になることをお許し下さい。
明治維新に命を掛けて、近代日本へと導いた人の代表でしょう。
「敬天愛人」の言葉はいつも胸にズシンと来ます。
『天を敬い、人を愛す・・・・・
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
(現代訳)
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。
天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」 (西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓より抜粋)』
日本最後の内戦といわれる西南の役(1877年・明治10年)を最後にあの田原坂の戦いで破れ、鹿児島の城山の洞窟にて最後を遂げられました。
今、福岡市美術館にて福澤諭吉展が開催されています。
チケットは手に入れてますが、まだ出掛けてはいません。
先日、西日本新聞に福澤諭吉と西郷隆盛の関わりが記載されていました。
全く知らなかったことでした。
福澤諭吉が西南戦争を起こした西郷隆盛を擁護し世論に憤慨したという記事に接したのです。
福澤諭吉は停戦や西郷側の言い分を聞く公正な裁判を求める建白書を起草し、時の太政大臣に提出させた事。
戦争が鎮圧された後も武力を用いた事は同意しないが、西郷の行動を擁護し、依然として賊臣とされていた頃に銅像建設を呼びかける趣意書を起草したとの事であります。
驚きでした。
西郷隆盛は1828~1877(明治10年没、49歳)
福澤諭吉は1835~1901(明治34年没、66歳)
西郷隆盛が7歳年上、明治維新が1868年、40歳と33歳。
時代的にも世代的にも丁度重なる時期ではありますが、まさかこんな接点や関わりがあったとは存じませんでした。
福澤諭吉展はしっかり拝見してきます。
ちなみに福澤諭吉の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」。
「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」
Posted by mister_kei0918 at
08:24
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2009年05月15日
下戸と飲酒、煙草と食道がんの相関
下戸と飲酒、煙草と食道がんの相関
昨日の読売新聞からの情報はショッキングでした。
酒好きと胃がんとの相関はあるのではないかと危惧はしていましたが、まさかお酒に弱い体質の方の飲酒、喫煙が食道がんと繋がるとは思ってもみませんでした。
それに喫煙が大いに影響を与えるようです。相乗的な悪影響を及ぼすということでしょう。
そうですよね。あのような煙が体に入っていくわけですから、健康を害さないのが可笑しいでしょう。
お酒は適度な量は百薬の長。
煙草はそれなりの精神的な効用もあるようにも思います。
が、過ぎると心も体も乱してしまいます。
怖い話です。
『顔がすぐに赤くなるお酒に弱い体質の人が飲酒と喫煙をすると、食道がんになるリスクが、飲酒も喫煙もしない人に比べ、最大190倍も高くなることが、東京大学の中村祐輔教授と松田浩一助教授の研究でわかった。
同じ体質の人でも、飲酒・喫煙をしないと、リスクは7倍程度に下がった。
体質を理解して生活習慣に気を配ることで、予防したり、早期発見したりできると期待される。
研究チームは、食道がんの患者1070人と健常者2832人で、約55万か所の遺伝情報の違いを比較。
発がん性が指摘されているアセトアルデヒドをアルコールから作る酵素と、アセトアルデヒドを分解する酵素の二つが、食道がんのリスクに関連していることを突き止めた。
アセトアルデヒドはお酒で気分が悪くなる原因物質で、たばこの煙にも含まれる。
顔が赤くなるのは、アセトアルデヒドの分解能力が弱いためで、日本人の4割がこのタイプ。
アセトアルデヒドを作る働きが弱いと、気分が悪くなる前に、ついつい余分に飲んでアセトアルデヒドが増える。
飲酒・喫煙の影響についても調べたところ、お酒に弱く二つの酵素の働きが弱い人が、1日缶ビール1本以上の飲酒と喫煙をすると、相乗効果が働き、お酒に強く飲酒・喫煙をしない人に比べ、食道がんのリスクが190倍も高くなっていた。
最終更新:5月14日14時42分 YOMIURI ONLINE』
昨日の読売新聞からの情報はショッキングでした。
酒好きと胃がんとの相関はあるのではないかと危惧はしていましたが、まさかお酒に弱い体質の方の飲酒、喫煙が食道がんと繋がるとは思ってもみませんでした。
それに喫煙が大いに影響を与えるようです。相乗的な悪影響を及ぼすということでしょう。
そうですよね。あのような煙が体に入っていくわけですから、健康を害さないのが可笑しいでしょう。
お酒は適度な量は百薬の長。
煙草はそれなりの精神的な効用もあるようにも思います。
が、過ぎると心も体も乱してしまいます。
怖い話です。
『顔がすぐに赤くなるお酒に弱い体質の人が飲酒と喫煙をすると、食道がんになるリスクが、飲酒も喫煙もしない人に比べ、最大190倍も高くなることが、東京大学の中村祐輔教授と松田浩一助教授の研究でわかった。
同じ体質の人でも、飲酒・喫煙をしないと、リスクは7倍程度に下がった。
体質を理解して生活習慣に気を配ることで、予防したり、早期発見したりできると期待される。
研究チームは、食道がんの患者1070人と健常者2832人で、約55万か所の遺伝情報の違いを比較。
発がん性が指摘されているアセトアルデヒドをアルコールから作る酵素と、アセトアルデヒドを分解する酵素の二つが、食道がんのリスクに関連していることを突き止めた。
アセトアルデヒドはお酒で気分が悪くなる原因物質で、たばこの煙にも含まれる。
顔が赤くなるのは、アセトアルデヒドの分解能力が弱いためで、日本人の4割がこのタイプ。
アセトアルデヒドを作る働きが弱いと、気分が悪くなる前に、ついつい余分に飲んでアセトアルデヒドが増える。
飲酒・喫煙の影響についても調べたところ、お酒に弱く二つの酵素の働きが弱い人が、1日缶ビール1本以上の飲酒と喫煙をすると、相乗効果が働き、お酒に強く飲酒・喫煙をしない人に比べ、食道がんのリスクが190倍も高くなっていた。
最終更新:5月14日14時42分 YOMIURI ONLINE』
Posted by mister_kei0918 at
09:20
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2009年05月14日
どう努力しても賢くなれない
どう努力しても賢くなれない
いつも思うことですが、一生懸命に勉強したり、セミナーや講演会へも参加するのですがどうしても賢くなれないんです。
と思っていたところにこんな言葉を発見しました。
救われた思いです。
『賢いとは、多くのことではなく、
大切なことを知っているということだ。アイソキュロス』
大切なことを知っていることが賢いことだと語ってくれます。
どうも私どもは、むしろ私はと言い換えたほうが良いかもしれませんが、
沢山の知識を蓄えようとする余り、結局は虻蜂取らずでしかも二兎を追うもの、一兎も得ずの状態になっているようです。
或いはただでさえ小さい私の脳細胞が満杯状態かもしれませんし、若しくは頭の中に留まることを知らず馬耳東風的になっているのかもしれません、
いずれにしても過度に詰め込もうとしても、そんなに都合よく、旨くはいかないように人間は出来ているようです。
または頭の中には詰まっていてもそれを上手に吐き出す能力や機会がないのかもしれませんよね。
どんなに賢い情報が頭の中に詰まっていても、それを生かしたり、使ったりする能力やチャンスが伴わないとそれは宝の持ち腐れになってしまいます。
それは先ほどの言葉のように賢いとは言わないのかもしれませんね。
世の中で大切なことは数多く存在しますが、本当に自分にとって大切なものは何なのかを吟味してみると案外、そんなに我武者羅になって学ぶことでもなさそうです。
胸に手を当ててみるだけでも、少しは大切なものが見えてきそうです。
いつも思うことですが、一生懸命に勉強したり、セミナーや講演会へも参加するのですがどうしても賢くなれないんです。
と思っていたところにこんな言葉を発見しました。
救われた思いです。
『賢いとは、多くのことではなく、
大切なことを知っているということだ。アイソキュロス』
大切なことを知っていることが賢いことだと語ってくれます。
どうも私どもは、むしろ私はと言い換えたほうが良いかもしれませんが、
沢山の知識を蓄えようとする余り、結局は虻蜂取らずでしかも二兎を追うもの、一兎も得ずの状態になっているようです。
或いはただでさえ小さい私の脳細胞が満杯状態かもしれませんし、若しくは頭の中に留まることを知らず馬耳東風的になっているのかもしれません、
いずれにしても過度に詰め込もうとしても、そんなに都合よく、旨くはいかないように人間は出来ているようです。
または頭の中には詰まっていてもそれを上手に吐き出す能力や機会がないのかもしれませんよね。
どんなに賢い情報が頭の中に詰まっていても、それを生かしたり、使ったりする能力やチャンスが伴わないとそれは宝の持ち腐れになってしまいます。
それは先ほどの言葉のように賢いとは言わないのかもしれませんね。
世の中で大切なことは数多く存在しますが、本当に自分にとって大切なものは何なのかを吟味してみると案外、そんなに我武者羅になって学ぶことでもなさそうです。
胸に手を当ててみるだけでも、少しは大切なものが見えてきそうです。
Posted by mister_kei0918 at
18:56
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2009年05月13日
遠慮なく老いを語る
遠慮なく老いを語る
最近の還暦を迎えた人々はすこぶる元気です。
元気すぎると言っても過言ではなさそうです。
昔でしたら、還暦を迎えることが即高齢者だったわけで、
白髪か若しくはもう既に髪を失っているか、
入れ歯で
少し背が丸くなっていて、
老眼で
物覚えが悪く、
口うるさくて、小言や愚痴が多く
時には手に負えないくらいに頑固で
晩酌の毎日で
早寝早起き、
歩くと何でもない所につまずいて、
杖を持ちなさいの家族の声も無視して、
昔のことに拘って、
自慢話に終始して、今時の若い者はとつぶやいて、
食事をすると口の端から食べ物をポロリと落としたりして、
鼻髭、耳毛が飛び出して
話に熱が入ると食べ物を口から唾のように飛び出させて、
・
・
・
今の年寄りはそんなことはありませんよね。
いつまで現役で頑張るのかと疑いたくもなる先輩がいます。
自然の成り行きとは言え、必ず人間は老齢化し、いつかは人生を全うして彼の地へ旅立つわけですが、誰しも積極的に老いを語ろうとはしないものです。
特に若い方々には老いとはどういうものであるのかを教えておく必要があるようにも思えます。
そのことをちゃんと理解した上で歩む人生と、ただ成り行きで生きていく人生はどこか違いますし充実の程度が異なるようにも思えます。
体の変化はどうだとか、
精神面の動きはどうだとか、
振り返った人生はどうだとか、
これからの短い余生をどう思っているかとか、
やがて来る死に対する思いだとか・・・・・
今は核家族が殆どであり、若しかすると一人暮らしの人々が殆どです。
人の誕生や死に遭遇することなく、ましてや老い等というものがどういう現象なのか全く知る機会もないような人生を送る人々が多いものです。
自分が始めてそのような時期になって不安に苛まされながら、老後を迎えることになっています。
仏教の四苦の一つが老いるということです。
時には自分の老いを見つめる機会も会って良いのではないでしょうか。
若い方々に遠慮なく老いを語る、若い方々は老いるということがどんなことかを教えてもらう。
それが大切なようです。
私自身が歳を取った精でしょうか。
最近の還暦を迎えた人々はすこぶる元気です。
元気すぎると言っても過言ではなさそうです。
昔でしたら、還暦を迎えることが即高齢者だったわけで、
白髪か若しくはもう既に髪を失っているか、
入れ歯で
少し背が丸くなっていて、
老眼で
物覚えが悪く、
口うるさくて、小言や愚痴が多く
時には手に負えないくらいに頑固で
晩酌の毎日で
早寝早起き、
歩くと何でもない所につまずいて、
杖を持ちなさいの家族の声も無視して、
昔のことに拘って、
自慢話に終始して、今時の若い者はとつぶやいて、
食事をすると口の端から食べ物をポロリと落としたりして、
鼻髭、耳毛が飛び出して
話に熱が入ると食べ物を口から唾のように飛び出させて、
・
・
・
今の年寄りはそんなことはありませんよね。
いつまで現役で頑張るのかと疑いたくもなる先輩がいます。
自然の成り行きとは言え、必ず人間は老齢化し、いつかは人生を全うして彼の地へ旅立つわけですが、誰しも積極的に老いを語ろうとはしないものです。
特に若い方々には老いとはどういうものであるのかを教えておく必要があるようにも思えます。
そのことをちゃんと理解した上で歩む人生と、ただ成り行きで生きていく人生はどこか違いますし充実の程度が異なるようにも思えます。
体の変化はどうだとか、
精神面の動きはどうだとか、
振り返った人生はどうだとか、
これからの短い余生をどう思っているかとか、
やがて来る死に対する思いだとか・・・・・
今は核家族が殆どであり、若しかすると一人暮らしの人々が殆どです。
人の誕生や死に遭遇することなく、ましてや老い等というものがどういう現象なのか全く知る機会もないような人生を送る人々が多いものです。
自分が始めてそのような時期になって不安に苛まされながら、老後を迎えることになっています。
仏教の四苦の一つが老いるということです。
時には自分の老いを見つめる機会も会って良いのではないでしょうか。
若い方々に遠慮なく老いを語る、若い方々は老いるということがどんなことかを教えてもらう。
それが大切なようです。
私自身が歳を取った精でしょうか。
Posted by mister_kei0918 at
19:27
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2009年05月12日
しないと言ったらしない!!
しないと言ったらしない!!
母親が小言のように口にする言葉「しないと言ったらしない!!」
懐かしい響きです。
昔は至る所で、母親が幼い子供に言った言葉です。
子供が賢くなって、手間の掛からないようになってきたのか、母親が頓着なくなり、しつけに厳しさやしつこさがなくなったのか。
子供の幼い頃はまだまだ動物的です。
躾けても躾けても言う事を聞きませんし、同じことの繰り返しです。
痺れを切らした母親が言います「しないと言ったらしない!!」
「何度同じ事を言わせるの!!」
子供は誉めて育てなさいとよく言われますが、逆に大事なことは厳しく教えなさいの裏返しです。
人としての素養を十分に教えないで、人生は順調には行きませんし途中で挫折の波を被ってしまいます。
家族を含め他人や社会に迷惑を掛けないことの大切さや、大事にすることが結局は自分を大切にすることになることを教えてあげねばいけません。
誉めることだけが先行してしまいますと、人間は他の動物以上に助長してしまう動物です。
自分中心的になってしまいますし、極論をすれば家族や社会は自分の為にあるのだという錯覚の世界に落ち込んでしまいます。
眉間に皺寄せて、口角を尖らせて「しないと言ったらしない!!」
そんな母親の姿を多く見る社会こそ、明るい未来のさきがけと思われます。
怒るのではなく、叱る、戒める。
ちゃんとしつけをしっかり身につけて育った人に限って、人を大切にし、社会に貢献することを知っているものです。
そのことは結局、家族を大切にしてくれます。
物を大切にしてくれます。
母親が小言のように口にする言葉「しないと言ったらしない!!」
懐かしい響きです。
昔は至る所で、母親が幼い子供に言った言葉です。
子供が賢くなって、手間の掛からないようになってきたのか、母親が頓着なくなり、しつけに厳しさやしつこさがなくなったのか。
子供の幼い頃はまだまだ動物的です。
躾けても躾けても言う事を聞きませんし、同じことの繰り返しです。
痺れを切らした母親が言います「しないと言ったらしない!!」
「何度同じ事を言わせるの!!」
子供は誉めて育てなさいとよく言われますが、逆に大事なことは厳しく教えなさいの裏返しです。
人としての素養を十分に教えないで、人生は順調には行きませんし途中で挫折の波を被ってしまいます。
家族を含め他人や社会に迷惑を掛けないことの大切さや、大事にすることが結局は自分を大切にすることになることを教えてあげねばいけません。
誉めることだけが先行してしまいますと、人間は他の動物以上に助長してしまう動物です。
自分中心的になってしまいますし、極論をすれば家族や社会は自分の為にあるのだという錯覚の世界に落ち込んでしまいます。
眉間に皺寄せて、口角を尖らせて「しないと言ったらしない!!」
そんな母親の姿を多く見る社会こそ、明るい未来のさきがけと思われます。
怒るのではなく、叱る、戒める。
ちゃんとしつけをしっかり身につけて育った人に限って、人を大切にし、社会に貢献することを知っているものです。
そのことは結局、家族を大切にしてくれます。
物を大切にしてくれます。
Posted by mister_kei0918 at
23:54
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